かつて「ユーゴスラビアとは7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ1つの国家」であった。加えて各々の集団は互いの領域の内に別の(それも属性の多様な)集団を多数抱え込んでおり、それはまさしく「モザイク」と呼ぶに相応しい混沌であった。
今日、ユーゴスラビアという国は存在しない。2006年6月3日にセルビア・モンテネグロからモンテネグロが独立し、旧ユーゴスラビアを形成した6つの共和国は完全に分裂したが、実質的なユーゴスラビア崩壊の日は1990年12月26日である。それから16年の歳月が経ち、バラバラに壊れたこの国の歴史を学ぶことはなんとも痛ましく、暗澹たる思いに打ちひしがれる作業である。ユーゴスラビア崩壊によって引き起こされた紛争は、それがあまりに「バルカン」的な悲劇であったがために多くの犠牲を生み、多くの反省を人類に与えた。
バルカン半島は、その地理的条件によって歴史上数多の境界線を跨いできた。古代ローマ帝国の分裂によってキリスト教圏は、バルカンを境に西のカトリックと東のギリシア正教会に分派し、その後イスラム勢力によって半島が征服されると、この地にはキリスト教社会とイスラム教社会の軍事境界線が引かれた。このヨーロッパとアジアを隔てる半島は、近年では資本主義と社会主義の対立の象徴であった「鉄のカーテン」が引かれ、東西冷戦の最前線ともなった。バルカンは、その存在自体が対立する要因であるかのごとく、幾多の抗争と悲劇の舞台となってきたである。ユーゴスラビアを成した各民族の屈折した民族アイデンティティは、この極度に「バルカン化」された歴史の中で育まれ、それが現在に至るユーゴスラビア崩壊の問題を難解なものにしてしまっている。
ユーゴスラビアの建国はこのバルカン化した歴史を克服する試みであった。一方でユーゴスラビアの崩壊は人類に歴史のバルカン的宿命を突きつけている。ユーゴスラビアの解体を単に民族問題の所産であると位置づけることは安易に過ぎるだろう。「民族」という概念が生まれる遥か以前から人々は対立し、また共存してきたのだ。支配され、認められ、虐げられ、忘れられてきたこの「バルカン」という過去が人々を純化するのである。このようにユーゴスラビアを学ぶことはバルカンという特異性を学ぶことでもあるが、それは同時にバルカンという縮図化された地球の多様性を学ぶことでもある。バルカンを研究することは多民族統治や地球政治の在り方にも多くの示唆を与えることになるだろう。
以下では、まず第一章でバルカン半島の地理環境を踏まえつつ、ユーゴスラビアという国家が完成するまでの歴史を見る。その上で第二章ではユーゴスラビア独自の多民族、多文化統治のシステムを明らかにしたい。このようにバルカン史を二つに分けて捉える理由は、第三章以降で述べるように、多民族国家統治の研究対象をオスマン・ハプスブルクの両帝国によるものと、チトー主義によるものとに分けて考えるためである。
第四章ではバルカン・ユーゴスラビアの事例を題材に、集団を決定する要因として考えられる幾つかのキーワードを取り上げ、それらが個々にどういう作用を人々にもたらすのかを探る。民族を決定するのは宗教か、言語か、それとも歴史か。そもそも民族とそれらはどのような違いがあるのか。民族問題の深層に迫りたい。
そして第五章では民族対立を超えるイデオロギーを提示する。社会主義は一つの民族を超えるイデオロギーではあったが、アイデンティティとはならなかった。我々は自らが何者であるのかを無意識的に自覚しているが、そこにある民族、宗教、歴史などはそれ自体が対立する要因となっていないだろうか。では対立しないアイデンティティなるものは存在し得るのだろうか。これらの問いに自分なりのアプローチで答えを探る。
最後に、ユーゴスラビアは本来「南スラブ人の国」を意味する言葉であった。正式に国家の名称としてユーゴスラビアが使用されるようになったのは1929年である。それ以来、2003年2月5日にその名称が消滅するまで、ユーゴスラビアの名を冠したこの国は45年、63年、92年と三度の政治体制の変容に伴う正式名称の変更を行っている。その詳細は本論に譲るとして、このように幾度かの名称の変更を行っているこの国を総称して本稿では、とりわけ理由のない限り「ユーゴスラビア」と呼称している(以下、「ユーゴ」と呼称する場合も同様である)。また45年を境にユーゴスラビアは「第一のユーゴ」と「第二のユーゴ」に分けて一般に考えられているため、本稿でもそれを踏襲した章立てを行っている。